2013年5月7日火曜日

5/7 カルテット!を観てきました

ゴールデンウィークはほとんど本番とアルバイトに過ぎましたが、
今日は休日らしく、と思って映画を観てきました。



カルテット!人生のオペラハウス
監督 ダスティン・ホフマン 
出演 マギー・スミス
   トム・コートネイ
   ビリー・コリノー
   ポーリーン・コリンズ
   マイケル・ガンボン


この映画を観たかったのは3つの理由から。
ひとつに、ダスティン・ホフマンが監督だと聞いて。
ひとつに、オペラがモチーフだと聞いて。
ひとつに、マギー・スミスが主演だと聞いて。

以下、ネタバレ要素も含みますので、その点注意してお読みくださいね。


とてもいい映画でした。扱われるモチーフがとても明確で。
どこから感想を述べたらいいか困るくらい。


70年代のハリウッドが生んだ偉大な発明品のひとつが、
二枚目俳優でも知性あふれる役者でも筋肉隆々のスターでもなく、
ごくごく平凡な身なりでごくごく平凡な容姿を持つ“世間の若者と酷似した”
アメリカン・ニューシネマを代表する存在としてのダスティン・ホフマンでした。
その後彼はアメリカ映画界に、性格俳優という新しいポストを創造し、
以後アメリカという自由なキャンバスの上に彼の信じる、
演技が秘めているはずの可能性を常に描き続けてきました。

そんな、現代で数少ない名優のうちのひとりであるホフマンが初めてメガホンを取った作品は、
その舞台をイギリスにとり、出演者のほとんどがイギリスの名俳優たちで、
原作の戯曲もイギリス人作家に依るものなのです。
これは、とても不思議なことだと思いませんか。
アメリカの生んだ名優が、何故初めての監督作品でイギリスの風景を撮りたかったのか。


あらすじを書けばとても簡単です。

舞台はイギリスの老人ホーム。リタイアした音楽家ばかりが暮らしています。
財政難により半年ほどで閉鎖されるかもしれない状況を救えるのは
入居者たちによるガラコンサートによる収益のみ。
そこに新参者としてやってきたのが往年の名ソプラノ。
しかし彼女は人前で歌うことを止めていました。
コンサートの成功には、黄金のカルテットと呼ばれた4人の名歌手による四重唱が必要。
けれど彼女は歌いたくないと言います。はたして———。



作品のモチーフとして重要なのが「終わり」という要素。

物語の冒頭ではいきなり語られるのが「老人ホーム閉鎖の危機」です。
平穏で幸せな隠遁生活は決して永遠には続かず
それどころかいくらもしないうちに終焉を迎えるのだという現実を突きつけられます。
つまり、この作品は始まって10分もしないうちに「終わりある楽園」での物語だということが観客に告げられるのです。

さらにもちろん「終わり」のもうひとつの形として「死」の存在があります。
老人ホームは音楽家たちにとっての「終の住処」であり、死が来るまでの「待合室」です。

多く一般の人々は、死を忌諱すべきものとして捉えます。
そして、死を強く連想させる「老い」についても同等の態度を取ります。
年老いた音楽家たちは今まさに忌諱すべき終焉までの日々を待ち潰す存在です。

ただ、彼らはすでに一度擬似的な死を経験しています。
つまり「演奏家としての死」です。
人前でパフォーマンスをしなくなった、あるいはできなくなった演奏家は、
引退という優しい言葉の裏側で、演奏家である自分をどうにか殺さなければなりません。
そうでなければあまりに強い自我によって、自らの心が先に狂ってしまう。
ただ、老人ホームにいる彼らのなかには誰ひとりとして、心の狂ったものはいません。
なぜでしょうか。

そこにやってくるのは往年の名歌手であるジーン。
彼女は、最後の最後までこの老人ホームに来ることを拒否し、
仕方なく入居することになっても、それを知られたくないがために
誰にも引っ越しの事実を告げずにホームへやってきます。
彼女は「死を遠ざけたい」という気持ちの象徴です。
老いを受け入れたくない。自らの老いを認めない。世間にそれを知られたくない。
だからこそどうしても状況が許さなくなるまで老人ホームの存在を避け続け、
入居することを誰ひとりにも知らせなかったのです。

ただ、老人ホームに入りたくなかった理由はもうひとつあります。
かつての夫がすでにそこに住んでいたからです。
その夫とはかつての共演者であり名テノールであるレジーで、
ジーン自身の浮気の告白によって悲しい別れを経験した相手でもあります。
ジーンに取って老人ホームとは、老いと死の象徴であると同時に、
私を嫌っている元夫のホームグラウンドでもあります。
そこにいけば自分は完全に孤立すると思い込んでいます。


この物語のモチーフが「終わり」であり、
それは「老人ホームの閉鎖」「演奏者としての擬似的な死」「来るべき実際の死」
によって語られていますが、このうちの特にうしろのふたつをよりリアルに表現するために
物語の主人公には音楽家の中でも「歌手」が選ばれています。
これにはとても意味があって、つまり、音楽家の中で唯一、“楽器が老いる”演奏者が
歌手という存在なのです。

ピアノやヴァイオリンの経年劣化は、人間ひとりの人生のうちで完結しません。
しかし、自らが楽器でありながらもその演奏者であるという特殊な条件をもった歌手は、
自分の老いとともに、声の衰えを確実に迎え、結果音楽家としての価値の多くを失います。
美しい音色故の音楽、というポイントは、避けて通ることができないのです。

ジーンはそれゆえに、つまり自らの老いゆえに、人前で歌うことをすでにやめています。
かつての栄光を強い自意識の中で抱き守りながら、その栄光を取り戻すことはもう無いと
やはり強い自意識によって確信しています。
彼女は“老い故に”もういい演奏ができるはずはないと考えるのです。



一方、老人ホームに属す人々たちは、一種の親密なコロニーを形成しています。
そこにはルールがあり、役割があり、コミュニケーションがあります。
引退した音楽家たちはかつての同業者と共に隔離された空間で暮らしながら、
それぞれに相応しい振る舞いを身につけて、一緒に死を待っています。
もしも彼らが音楽家業の廃業時に、擬似的な死を上手く乗り越えられていなかったとしたら、
物語の設定としての「老人ホームの閉鎖」はなんの衝撃も持たなくなります。
けれども、それがホームに入る以前か以後かは別問題として、
彼らはそれぞれに演奏家としての擬似的な死を乗り越えています。
そして、それを乗り越えてなお、実際の死を目前にしながらも、
ホームでの毎日をそれぞれに楽しく生き、ホームの閉鎖に立ち向かう行動力をもつことができるのは、
この老人ホーム内でのつながりが疑似家族として機能しているからに他なりません。

「終わり」を受け入れるからこそ毎日の生活が輝いてくる。
そしてその輝きをさらに色鮮やかにする仲間を持っている。
それを失いたくないからこそ、すでに引退した演奏家たちは、
かつてのような演奏は決して出来ないにしても、
音楽家としてガラコンサートのステージに立ち、
自らの演奏によって寄付を募り、疑似家族との生活を少しでも長く維持しようと奮闘するのです。


しかし、ジーンは「終わり」を受け入れられないでいます。
過去の輝きに目を向けるあまり、今の生活には輝きのひとかけらも見いだせません。
絶望と羞恥の日々だけを生きています。

そして、ジーンは老人ホームのなかで、少しずつ疑似家族体験をしていきます。
その度に彼女の視線は少しずつ現在の日常に接続されていきます。
かつての仲間との交流や、古い恋人との会話を経て、
彼女は「終わり」の受け入れ方を学んでいきます。


一人の部屋で、若き日の自分が残したジルダの録音を聴くジーンは、
過去にすがり死から目を背けています。
老いを受け入れず、ただその存在を背後にひやりと感じ、
それでもそれを信じまいと心を閉じ続けています。
凝り固まった心の表層を砕くきっかけとなったシーンがあります。


 ジーンの旧友であり、昔の共演者であったシシーは部屋に籠るジーンを散歩に連れ出す。
 歩き疲れた果てにベンチに腰掛ける二人のもとに、小さな女の子が駆け寄る。
 女の子とシシーは良い友達で、シシーは女の子にジーンのことを紹介し、
 そして“アメの場所当てゲーム”を持ちかける。
 遠くで女の子の両親が彼女を呼ぶと、女の子は駆け出す。
 シシーが「さよならもなしでいっちゃうの?」と呼びかけると
 女の子は「さようなら、シシー」と答える。
 そしてジーンの方に向き直り訊る「あなたのお名前はなんていうの?」
 ジーンがはっとした顔をして「ジーンよ」と答えると、
 「さようなら、ジーン」と女の子が告げ、走り去る。
 画面いっぱい顔のアップが映り、ジーンは物憂げな表情で「さようなら」とつぶやく。

女の子は、紛れもなく“ジーン以後”あるいは“現在のイギリス”の投影であり、
彼女の「あなたの名前はなに?」という問いかけによってジーンは、
無名である現在の自分という存在に、目をそらしていた現実に不意に対面させられます。
そして、“ジーン以後の未来”である女の子に「さようなら、ジーン」と告げられることで、
かつての名歌手ジーンは、自分が“偉大なる歌手”というステージから退場させられたことを理解します。
そして自らに「さようなら」と語りかけることによって、“かつて偉大だった歌手”という肩書きへ
半強制的に押し出されます。
なんとも繊細でドラマチックなシーンを、無邪気な女の子という存在によって彩ったのは
戯曲の素晴らしさでしょうか監督の素晴らしさでしょうか。
そしてそのシーンを表情だけで演じたマギー・スミスも素晴らしい。



ダスティン・ホフマンが監督として素晴らしいなと思ったのが、
イギリスの緑の風景の美しさに幾許かの寂しさを加えて画面におさめたことと、
その風景を登場人物の心理描写に上手く結びつけている点。
もうひとつは冒頭の数分間で、主要登場人物のキャラクターを余すこと無く観客に伝えていること。
それ以外はもう、イギリスの名優たちの素晴らしさによって、成り立っているようなものです。


物語が終盤を迎えるにつれて、ジーンはホーム内でコミュニケーションを紡ぎ、
疑似家族体験を手に入れることによって、演奏家としての擬似的死を受け入れ、
自らの老いに向き合う術を少しずつ知ります。
そして、ガラコンサートのためにもう一度歌うことを決意します。

つまりこの物語の描いている美しさは、「終わり」を受け入れた末に見えてくる
日常の美しさであり、そしてそれはとてもささやかで慎ましいものたちであります。
たとえばバッハのワンフレーズや、朝食のジャム。開けっぴろげな下ネタや、隠れて飲むお酒。
ささやかだからこそ美しく輝きを放つものたちに目を向けられることの豊かさ。
それは「死」が約束されたものであるからこそ得られるのだということこそ、
そしてそれが「擬似的な死」を乗り越えた演奏家たちに与えられているからこそ、
オペラを題材にした本作はその観客に感動的なユーモアをみせる事ができるのです。

だから、だからこそ、ラストシーンは、個人的には腑に落ちなかった。
日常の美しさの最上級として「古い愛の再生」を描きました。
これは僕にとっては、ちょっとだけ野暮に感じられました。
ジーンとレジーが舞台袖で目を合わせしばし見つめ合い、
そしてジーンがもう一度歌う。それだけで十分だったのではないかと思われてなりません。


yy

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